知らない指先と、知らない傷跡
綺麗な空。優しい里。揃っている両親。傍にいてくれるせんせー。
――――なぁ。寂しいのは、何で?
『知らない指先と、知らない傷跡』
「ナルト?」
四代目の執務室からカカシの家にお邪魔した形になったナルトだったが、先ほどまでは目を回してぱったりと倒れていた。そんなナルトをカカシのベッドに横にした後、暗部装束を脱ぎ捨て洗濯機に放り込み、いつもの、見慣れてこの家に馴染んだ少女ではないナルトが手を万が一にでも出したりすることのないように消毒剤と洗剤を放り込んで回してしまってから、シャワーを浴びる為に浴室に一人籠もっていたカカシは目の前の光景に、眉を顰めた。
目が覚めた気配はあったから。あの好奇心旺盛そうなコドモのことだ、物珍しさにわくわくして部屋の中を物色しているのではないかと思っていたのだけれど。
カカシの、色違いの眼に映った、小さく見慣れたチャクラさえもこの家に馴染んでしまっている件の少女よりも更に小さな、異界からの来訪者は。
まだ日の高い、窓枠に切り取られた青い空。
その額縁のような背景がよく似合う、四代目によく似た綺麗な金の色。
いつも見慣れた高さよりずっと視線の交わる位置の低い、恐らくは平均よりも小さなコドモ。
どれほどまでにやんちゃ坊主なのだろうかと思わせるほどに騒がしいそのチャクラさえも鳴りを潜めた、稚く頼りない、背中。
――――無性に、寂しそうに、見えた。
「どうした。腹でも減ったか」
「んー?」
ぼうと窓から下を覗けば、ナルトに気付いて手を振ってくる子どもの姿が目に入る。にこにこと手を振り返しているけれどその表情が真実笑っていない事に、どれほどの里の者たちが気付くだろうか。
年季が入り過ぎだ、と素で思った。作り笑いの年季が入りすぎているなんて、たかが12、3の子どもではありえないだろうと思う。物心ついてすぐに父親を亡くした自分ですら、こんな自然すぎて余りにも不自然な笑顔など作ることなど出来なかった。無表情に、ただ我を張ることしか出来なかったのに。少なくともこの子どもの年の頃の自分は、一丁前に大人のフリを、必死でしていたような気がする。
こんな、違和感がないほど不自然な、子どもらしい子どもではいられなかった。
「優しいってばねー」
「は?」
「この木ノ葉は、優しいってば。四代目がいるせい? オレの両親がちゃんと揃ってるせい? 優しすぎて、こーいっちゃなんだけど、ホント、逆にウサンクサいってば」
「失礼だな」
ぴん。狭い額を額当ての上から、指先で弾く。意外とこれが結構痛いというか頭に響くらしいと知ったのは、確か四代目に師事していた子どもの頃のことだ。当時の四代目は、いろんなイミで容赦のない人だったから。今は、奥方と愛娘というストッパーのおかげで大分緩和している。まあ、二人がいないところでは相変わらずではあったけれど。
「……なーあ、せんせー。こんなトコで育ってたら、オレもっとイイコでいられたのかなー」
先生じゃないと言おうとして、里を見つめるその柔らかな表情に、カカシは口をつぐんだ。
「イタズラなんかしなくても、ちゃんとオレのこと見てくれるヒトたち、いっぱいいたのかなー」
この言葉は、少なくとも今ここにいる『カカシ』に向けられた言葉では、ない。先生と言っているからには、もしかもすれば、彼女にも恩師と慕われるイルカのことかもしれない。
ナルトの言う、『イイコ』。
それがどんなイミを指しているのか、カカシには判らない。
だが、このコドモが育った里がどんな場所であるのか、判らないわけではなかった。何せ自分は、仕事柄私事柄、負の感情を知りすぎている。当然、九尾の妖狐に対する、この里の、本当の感情も。
「隠れなくて、俯かなくて、逃げなくて、ジコシュチョーしなくて……良かったのかなぁ……」
里全部、抱き締められたのかな。ナルトが、微笑った。
「誰かがいても家にいても、結局一人、なんて、さ。そんなこと、なかったのかなぁ」
強くあろうとするコドモの、強がりの中に秘めた寂しさが滲む。
これが、このコドモの強さかと、思う。
壊れそうな、真っ直ぐさかと、思う。
所詮自分は一人なのだからと、誰もこの手を取ってはくれないのだからと、自分だとて何も他人に期待をしない。そんな、酷く危うく脆い……強さ。
共に、赤子でありながら、人々の憎悪をたった一人で受け止めた幼子。
それら全てをひっくるめて受け止めてもらいながら、愛されながら。裏に回れば何を言われているか判らないけれどそれでも周囲に守護られてきた、ある意味で箱入りと呼んで良いであろうこちらのナルトと。全てを否定され、憎まれ、疎まれながら、本来は警戒などする必要のない自分の里の中で、ある意味敵ばかりの中でただ必死で生き延びてきた、今目の前にいるナルトと。
どちらが強いのか、カカシには判らない。
けれど、目の前のコドモが酷く儚く目に映ることもまた、真実。それは、生まれたときから傍にいる少女には、ないものだ。
「へへ、らしくねーコトいっちった。気にしないでいーってばよ、せんせ」
そうやって、全て偽りの笑顔の下に隠してきたのかと。この笑顔の意味を、もう一人の自分は気付いているのだろうかと、思う。否、気付いていたら良い。気付いていると思いたい。そこまでバカだとは思いたくなかった。
「誰が先生だ?」
「……あ」
がしがしと、ナルトの心の機微などに素知らぬフリをしながら、頭から被ったタオルで乱暴に拭う。問うのは、ただ一点のみ。
「あーうー」
ほんのりと頬を染めて、ナルトはぱたりと窓枠に突っ伏した。
「何をそんなに困ってるんだか」
小さく小さく、零したのは吐息。
まったく、見かけだけは人懐こいフリをして、この子どもはなんと警戒心の強いことか。どうあっても誰であっても、心に踏み込ませたくなどないのか。
「だ、だってだって!!」
「だって?」
「せんせーをせんせー以外で呼ぶのって、どうしたらいいんだってば!!」
悲痛そうに、叫ばれた。
「……どーにもならんだろう……。諦めて、名を呼べ。先生などと呼ばれた方が、余程反応できない」
「反応?」
首を傾げる。ああ、あの娘も、判らないことがあったときには確かにこんな表情をこんな仕草をしていたことが、あった。すっかり成長してしまった最近は、とんと見ないけれど。
「応えてやれない、といっている」
ナルトが己を呼ぶ声に、無視はしないと。応えてくれると。
この、どうみても無愛想な男は言うのだ。
だから名を呼べと、そう、言う。
「何か、こっちのナルトが羨ましいってば」
「……は?」
微笑うナルトの言葉に、カカシは思わずきょとんとした表情を向けてしまった。
「うわぁ」
そんな声と共に、ナルトがまた目を丸くする。こんな表情をすると、更にこの子どもは酷く幼かった。
「せんせー、マスクの下すっげいー男じゃんよ」
――――今更気付いたように驚かれても、どうかと思う。風呂に入るのにまでマスクをして入るバカはいないだろう、と言ったら、温泉で、タオルで下かくさねーで顔隠してたから、と言われた。……向こうの俺は何をどうしてどうやったらそんな大人になったんだかと、カカシは思わないでもない。それともここは、自分がそうならなくて良かったと思うべきなのか。
「うわー、何で普段これ隠してるんだってば。これなら絶対にモテんのに、モッタイナイー」
「だから、」
勿体無いといい男を繰り返しながら見上げてくる子どもは、やっぱり名では呼んでくれなかった。
優しいヒト。優しい里。九尾を腹に抱えていても、オレにはただ無性に優しい世界。
だけどそれが、酷く虚ろで冷たいことは、オレが一番良く知ってるんじゃないかと思う。
だって、ホントに言いたいことは皆、口を閉ざすから。
「……キモチワルイ」
「失礼なこと言うな」
何度目かの呟きに、カカシは拳骨を落とすことさえ諦めて、指先を眉間に押し当てた。ただその指先は額当てに遮られているのだけれど。
「ナルちゃん、新製品だけど食べてみるかい?」
「なんだってば、どれどれっ?」
通りすがりの年配の女性の声に、コドモはぱっと喜色満面とばかりに顔色を変える。その切り替わりたるや、四代目も真っ青だ。――――さっきから何度、こんなことを繰り返しているだろうか。これだけで随分体力も精神力も消耗しそうだと、カカシなどは思う。
「美味しー、おばちゃんってば料理上手だってばね。どーやって作るんだってば? すぐ出来るもん?」
「ナルちゃんがそういうなら店に出しても平気だね。まー、すぐには無理だよ。もーちょっと料理上手さんになってからね」
「えー、いーじゃん。教えてくれたってー」
「大体、店の秘伝を教えるわけには行かないよー」
「えー、ずるいってばー」
笑ったり、強請ったり、むくれたりしているけれど。それが、相手に不快感を与えない程度にぽんぽんと、軽快に話が進んでゆく。そして、声をかけた女性にまた、満面の笑みで手を振って見せて、暫くして人気が減った途端、肩を落とし小さく小さく息をつく。もう、こんなコトが何度目なのかも判らない。
「何もそんなに、無理する必要はないんじゃないのか」
ナルトがぱっとカカシを見上げた。その反射的な動きにまた笑顔なのかと思えば、蒼い瞳が不安げに揺れている。その四代目に良く似て全く似ていない蒼を、正面から目の当たりにしてしまった。こくり、と、カカシの喉が、我知らず一つ、鳴る。
「……だって」
ふい、とカカシを見つめることに堪えきれなくなったように、大きな蒼い眼を、小作りな顔を逸らした。
「何か、オレが変なコトして、オレのせいでアトでナルトになんかあったら、ワルイ、てば」
ああ誰が。一体誰が、どんなコドモが、そんなところまで考えて里人に対応するというのだ。
どれほど精神的に早く育つことを余儀なくされる生業だとはいえ、どちらかといえばこの年代は女の子の方が精神的に早く大人びるもので。それは確かに、本来ここにいる筈の少女が証明してくれている。まあ、あの娘の場合は、男はいつまで経ってもコドモだと、四代目などは始終奥方に言われているせいもあろう。
本来、任務を離れたなら未だ親の庇護を受けて良い年代のコドモが、どうすればここまで相手の立場ばかりを思いやれるというのか。
――――否、思いやれる、と言う言葉は間違いかも知れない。此処まで育てばそれなりに大人の顔色を伺う知恵もついてくるというものだけれど、このコはそうせねば生き延びることすら難しい環境にいたと、それだけのことなのかも知れない、と、思う。九尾の回復力と体力がいくらこのコを助けてきたのだとしてもこの年齢まで生き延びる、それだけのことがどれほど難しいものなのか、どれほど大変なことなのか、カカシには判らない。
「大抵のことは、今のオマエのままで、大丈夫だ。こちらのナルトも、オマエも、そう違いはないよ」
里に見せている、その見せ掛けだけは。
どちらにも共通する表現になってしまう、それを何と言って良いのかはわからなかった。
「でもさ、なんつーのかな。逆に加減が判んねぇっての? どこまでが許されるモンなのか、見分けんの、難しいってば」
「……そんな加減なんか覚える年齢じゃないだろう……」
眉間に皺を寄せた難しい表情で、そんなことを告げられて。カカシはこのコドモが喜ぶのだということを覚えてから、がしがしと反射的に金色の頭を力任せに撫で倒しつつ、ただ、溜息をつくことしか出来なかった。
ぽちゃん。
白く煙るそれほど広くもないけれど決して狭くはないその場所で、なんでこんなことになったんだっけとカカシは天を仰いだ。仰いでみたところで見えるのは湯気と天井の梁と室内を照らし出す白熱灯くらいで、何の解決にもならないことくらい、カカシにも判っていたけれど。
「……ナルト。頭の後ろ、洗えてない」
湯船の中で洗い場のコドモを見やれば、ぎゅうと目を閉じて一心不乱に手を動かしているのが見えた。そんなに頭洗うのニガテか、と突っ込んでやりたくもなった。
「え、ウソ」
「嘘なんて言っても仕方ないだろう。ほら、ついでに耳の後ろも洗っておけ」
「うええ」
指摘してやれば、恐る恐ると言った様子で目を僅かに開ける。隙間から見える困ったような蒼に、思わず笑みが零れた。
「仕方ない、洗ってやるから頭上げろ」
「う。目ぇ沁みないってば?」
心配どころはそこなのか。情けない表情になったコドモに、再び小さく笑う。
「そんな力任せに目を閉じてるから、ちょっと開けようとするだけで泡が目に入るんだよ。フツーに閉じてろフツーに」
「ええっ?! だって目に入ると痛いってば、ぎゅーって閉じてないと入るってばよ!?」
慌てたように騒ぐコドモの頭に、ぽふりとその手を置いてみる。その瞬間、ぴたりとその慌しさが消えた。
「だからぎゅーって閉じてると、目を開けるのに動作が大きくなるだろう。そうすると、余計に目に入り易いんだよ。あと、頭洗うのに下向くな。前向いてれば、垂れてこないだろうが」
オマエのその、体力がヒトよりあるからって無駄に動いてる分の動きと同じでな、と呟けば、ぷくりと膨れた頬が俯いた後頭部の下に見える。カカシはわしゃわしゃと髪に触れた手を動かしながら、後ろから空いた手を伸ばし、くいとナルトの顎を押し上げた。
「……ああ、そぉか!!」
気付けよ……。ツッコミどころはどこだ、と思ってしまったカカシに、多分、罪はない。
「ふわぁ……」
シャワーで一気に流してやれば、目の前の小さなコドモから、思わずといった感じの声が漏れた。
「ヒトに洗ってもらうのって、気持ち良いってばねぇ……」
「そうか」
――――何でだか。コレっぽっちのことに満面の笑みを見せられて、カカシはどこか。切なくなった。
「すげぇ傷」
びっくりしたように肩や腕の傷に手を伸ばしてくるコドモの指に、思わずくすりと声が漏れる。全てが傷跡であると気付いたから、この無遠慮さなのだろう。
「くすぐったいよ。大体暗部にいるのにこんな傷、珍しいもんじゃない」
尋問部隊の森野イビキなどに比べたら、傷跡一つとっても随分と綺麗で可愛いものだ。何より、真新しい傷など一つもない。今、この身体にあるのは所謂古傷ばかりなのだから、痛みの残るものなど在りはしないのだ。――――只一つ、一度は縦に裂かれた、今は赭い左眼を覗いては。
「でも、痛そうだってば」
湯で温められたせいか上気した頬が、くしゃりと歪む。傷跡を辿る指が、ゆっくりと止まった。
「今は、痛いものなんかない」
「うん、判ってるってば。でも」
痛そうだってば。それでも言い募るコドモに、カカシは少しばかり諦めたような吐息をつく。
「お、怒った、てば?」
「何で怒らなきゃならない?」
恐る恐ると言った表情で見上げてくるナルトを、カカシは少しばかり驚いた表情で見下ろした。……風呂に入ってさえ、カカシのナルトを見る視点はかなり低い。
「オマエの傷は見た目殆ど残らないし治る速度も相当だからって、痛みが残ってないわけじゃないだろうにな、と思ってな。なのに、人の心配ばかりするのはどうしてかと、思ったんだ」
ぴしゃり。カカシの額が、小さな水音をたててナルトの額に、そっと触れた。
「いっぱい、痛い思いしてきたんだろう?」
呟かれた言葉に、見上げられたナルトの目が零れ落ちそうなほどに見開かれる。
「だからこんな、もう痛むことのない痕でしかない傷を見て、オマエは俺が痛いと思うんだ。痛みを知らなかったら、他人の傷跡を見てまで痛いなんて、自分のことのように思わないだろう?」
くしゃりと、金色の後頭部を、傷跡だらけの手が撫でた。
「……オマエは、優しいコだね」
「優しくなんて、ないってば」
からかわれたとでも思ったのかぷくりと膨れたナルトの表情に、男の眼が弓月に笑む。その、見慣れている筈の、でもここでは初めて見た表情に、ナルトは驚きを隠せない。
「人の痛みを気遣えるイイコだよ、オマエは。優しい、イイコだ」
それは、里を見下ろして呟いたコドモの問いかけの、今更な、カカシなりの返答だったのだ。
「へへ……ありがと」
ダイスキ。殆どカカシの腕に抱きしめられたような状態の少年が、照れたように泣きそうな表情で、それでもそう呟いて、微笑った。
「ナ、ル、くーんっ、ご飯だよー」
そして、いつまでも風呂から出てこない二人にどんな邪推をしてか特攻をかけてきた四代目が、その状況を目の当たりにし。楽しい誤解から風呂を螺旋丸でぶち壊しそうになるまで、あと30秒。
了
*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/*/
「来たるは、森の奥深くから」のサイドストーリーです。
PRAIVATE GOLD様にて展示、同人誌「Navigatoria」にて収録。(PRAIVATE GOLD様へは当方のLINKから行って下さい)
Navigatoriaの表紙を描いたお礼にっていただきました! 読みたい!! っておねだりしたら書いて頂きました! うわーい!
うふふ。佐野崎さんの小説もらえるなら何ぼでもかくよー! なんつーか涙が出るんですよ。優しさに触れてないんだなって思うと。もうナルトのいじらしさが本当に泣けるんですよ。せめてこの世界にいる間は優しさに浸って欲しいです。
そして、カカシ君!! にげてー!!
おにはち
-Powered by HTML DWARF-